2012年12月31日月曜日

沖縄戦跡紀行(3)

平成23年10月28日(金)続き

牛島中将が自決した洞窟の上に立つ「黎明の塔」は、この摩文仁地区の慰霊塔群の一番奥にある。各県の慰霊塔が並ぶ間を通り、慰霊塔が途切れた先の坂を登ると、とても10月下旬とは思えない明るい太陽の光の中に黎明の塔が見えてきた。


塔から海岸の方を見下ろした位置に第32軍司令部の洞窟がある。
 
 
 
        

入口には鉄格子があり、中に入れないようになっている。
近づいてみると、右手には「第32軍司令部終焉の地」と刻まれた碑があるのがわかった。
その後ろには観音菩薩像。この写真を撮ったあと、深く頭を下げ、手を合わせた。








 黎明の塔の手前には牛島中将以下、第32軍司令部戦没者を慰霊する「勇魂の碑」がある。






 
 
坂を下り、引き返そうとしたところ、後ろにキャタピラの音。
黎明の塔付近はちょうど整備のため工事中であったので、工事用の車両が黎明の塔に向かうところであった。
第32軍司令部の人たちが米軍の戦車と間違えなければよいが。 
  
 
坂を下りきったところにあるのは義烈空挺隊の慰霊塔。
義烈空挺隊は、昭和20年5月24日、米軍占領下の北および中飛行場に九七式重爆撃機で強行突入し、飛行場突入後は地上戦を展開し、敵機の破壊と軍事物資の焼却を行うという壮絶な作戦を敢行した部隊である。
北飛行場には5機が突入し、飛行機や物資集積所を破壊した。しかし、残念ながら中飛行場への突入についての記録はなく、戦果は定かではない。
それでも彼らの攻撃により両飛行場が 大混乱に陥ったことは事実である。

次の目的地は米陸軍第10軍司令官 バックナー中将の慰霊碑。
平和祈念公園からはバスの乗り継ぎがあまりよくないのでタクシーで行くつもりでいたが、タクシー乗り場にはタクシーが1台も見当たらない。
しかたがないので、バス停のある国道331号まで出てつかまえようとしたところ、客を降ろしたとおぼしきタクシーの後ろ姿が見えたので手を振りながら追いかけたが、気がついてもらえず、はるかかなたに行ってしまった。
やれやれ、バスで最寄りの「真栄里入口」まで行って、そこから往復40分くらい歩くしかないか、などと思いながらバス停「平和祈念堂入口」までとぼとぼ歩いて行ったら、さっきのタクシーがコンビニの駐車場で停まっていた。
中をのぞいたところ、誰もいない。しばらく待っていると気のいい感じの運転手氏がこちらに近づいてきた。
「バックナー中将の慰霊碑に寄って糸満に戻りたいのですが」
その運転手氏は笑顔でうなずく。

話し好きの運転手さんである。走り始めてしばらくたつと私に話しかけてきた。
「バックナー中将の慰霊碑にはあまり行く人がいないんですよ」
「そうですか。でも、沖縄県民をひとりでも助けようとした人だったというのは聞いているので、ぜひ行ってみたいと思ったんです」
「そうですね。バックナー中将は、一般の県民を大切にしたので地元の人たちにも慕われているんですよ。ただ、戦死した後、アメリカ軍は一般市民も軍人も見境がつかなくなって悲惨なことになったんです」
15分ほど走ると、案内表示が見えてきた。
「ここで待っているので、ゆっくり見てきてください」


太平洋戦争後期は物量作戦で日本軍を圧倒した米軍にとって、司令官クラスが戦死するというのは非常にまれなケースであった。階段を上った正面にあるのは、同じく戦死した米第96歩兵師団副師団長 イーズリー准将の慰霊碑。
沖縄戦はアメリカ軍にとっても壮絶な戦いであった。

イーズリー准将の慰霊碑の左隣にバックナー中将の慰霊碑がある。


タクシーに戻り、糸満公設市場に着けてもらうようお願いした。
道中、また運転手さんの方から話しかけてきた。
「先日、親戚の結婚式があって前の日から〇〇島(沖縄の離島だが島名は失念してしまった)に行ったんだけど、その家に泊まらないで、近くの宿に部屋をとったんですよ。なんでだかわかりますか。その家に泊まったら朝まで飲まされるからね。若いころならともかく、今では朝まで飲んでそのまま結婚式で飲むなんてできないからね。私は適当に切りあげて宿に泊まって、次の朝、その家に行ったんだけど、やっぱり泊まっていた人たちは朝まで飲んでいたね」
こういったことを沖縄独特のゆったりとしたイントネーションで話し始めた。もっと話を聞きたいと思ったが、糸満に着いたので、公設市場でタクシーを降りた。
 
もう一度公設市場あたりをプラプラしたあと、時間になったので那覇市内に戻るバスに乗り込んだ。
夜は亜熱帯特派員のサバヒ君と合流して、一杯(いっぱい?)飲む約束をしていた。
<Y> 
(次回に続く)

2012年12月1日土曜日

沖縄戦跡紀行(2)

平成23年10月28日(金)続き
糸満バスターミナルを1時過ぎに出発した琉球バス82番は、一路南下し、ほどなくするとサトウキビ畑が一面に広がる中を通り過ぎていく。
摩文仁の平和祈念公園までは約30分。この間を利用して沖縄戦について振り返ってみることにした。

昭和19年 7月 7日、サイパン島が陥落してから沖縄への米軍の攻撃は現実のものとして迫ってきた。そこで学童をはじめとした民間人の本土や台湾への疎開が始められたが、「対馬丸」の悲劇が起きたのはこういった動きの中での出来事であった。
事件が起きたのは 8月22日。疎開学童たちを乗せて本土に向かっていた「対馬丸」は米潜水艦ボーフィンの雷撃を受け沈没し、多くの学童ほか民間人が犠牲になった。

これは那覇市内にある「対馬丸記念館」。去年12月に沖縄に行ったときに撮ったもの。

10月10日には米機動部隊が沖縄の各地を空襲した。これは「10・10空襲」と呼ばれ、那覇では市街地の約90%が焼失している。
その後10月20日には米軍がフィリピン・レイテ島に上陸、翌昭和20年2月19日には硫黄島に上陸し、巨大なアメリカ陸海軍部隊の足音が一歩一歩沖縄に近づいてきた。
そして3月26日、米機動部隊の猛爆撃に続き、米陸軍第77歩兵師団の慶良間群島上陸により沖縄の陸上戦が始まった。
4月1日には米第10軍主力が沖縄本島・嘉手納海岸に殺到した。

これは翌日(10月29日)に行った嘉数の展望台から見た嘉手納海岸。

4月7日には、前日に呉から沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」を基幹とする第1遊撃部隊が、のべ300機を超える米機動部隊艦載機の攻撃を受け、沖縄突入という目的を達せず、「大和」は鹿児島の坊ノ岬沖に沈没した。
この写真は平成20年(2008年)1月にラマダビーチ近くの海岸で撮った岩の写真。私には沖縄にたどり着けなかった「大和」が艦首を右に向け横転し、波に洗われている悲痛な姿のように見えた。
下の地図に、対馬丸と大和の沈没地点を示してみた。
対馬丸は九州を目前にして沈められ、大和は沖縄のはるか手前で無念の沈没。

右下の地図は沖縄本島南部の拡大図で、主に今回訪ねたところを示した。


 4月8日、嘉数高地での戦闘が始まった。19日には日本軍守備隊が30両の米戦車隊のうち22両を撃破するという殊勲をあげたが、24日には米軍の圧倒的な火力に押され嘉数高地が陥落。
5月に入ると首里のすぐ目の前のシュガーローフ・ヒルでの戦闘が始まった。
シュガーローフ・ヒルの戦いは5月12日から始まり、一進一退の攻防が続いたが、18日ついに陥落。
5月24日には、義烈空挺隊が米軍占領下の北飛行場(読谷飛行場)に突入し、敵陣をかく乱した。
シュガーローフ・ヒルの陥落により直接攻撃が及ぶことを怖れた首里城地下の陸軍第32軍司令部は、5月22日に南部の摩文仁に撤退することを決定し、第32軍は27日に南下を開始。
首里は第32軍司令部撤退後の29日、米軍が占領。
那覇中心の南西、小禄の洞窟に司令部を置いていた海軍沖縄方面根拠地隊は第32軍の撤退により孤立化し、6月13日 司令官 大田実少将が自決。
ひめゆり部隊が戦死したのと同じ6月19日、米第10軍司令官 バックナー中将が日本軍の攻撃で戦死。
そして6月23日、第32軍司令官 牛島中将が摩文仁の洞窟で自決し、日本軍守備隊の組織的な戦闘は終わった。
本来であれば北の戦場から順を追って回った方がいいのかもしれないが、帰りの飛行機が心配なので、翌日は「ゆいレール」が使え、ある程度時間の計算ができる中部の戦跡に行くことにして、この日は南部戦跡を回ることとした。

まばゆいばかりの青空の下を走っているうちに平和祈念公園のバス停に着いた。



公園管理事務所でパンフレットと慰霊塔位置図をいただき、まずは第32軍司令官 牛島中将と幕僚たちが自決した摩文仁の洞窟の上に建つ「黎明の塔」に向かった。
(次回に続く)