2013年2月11日月曜日

沖縄戦跡紀行(5)

平成23年10月29日(土)続き
首里駅からゆいレールに乗り、奥武山公園駅で下車。
そこから那覇バス33番糸満西原線に乗り、豊見城公園前のバス停で降りて旧海軍司令部壕に向った。
那覇の南西、現在の那覇空港にあたる海軍小禄飛行場を見下ろす丘にあったのが、沖縄の海軍守備隊を指揮した大田実少将率いる沖縄方面根拠地隊の司令部である。

入口から続く階段を下りて行くと、中は横穴が続いていて、ところどころに作戦室、幕僚室、兵員室、医療室などが配置されている。

陸軍第32軍が首里を放棄し、5月27日に南下したあと、孤立した海軍守備隊は米軍の総攻撃を受けた。最期の時を悟った大田少将は、沖縄県民の献身的な協力ぶりを海軍次官あてに打電し、6月13日、壕内の司令部室で自決した。
「沖縄戦跡紀行(1)」でも紹介した「沖縄縣民斯ク戦ヘリ」で始まる電文には、県民を思った大田少将の人柄がにじみ出ている。


このような通路を通り、大田少将をはじめとした幕僚が自決した司令部室の前に立ったが、ここで最期を迎えたのかと思うとどうしてもカメラのシャッターを押すことができず、一礼して司令部室をあとにした。

次に向かったのが今回の戦跡紀行の最後の目的地「シュガーローフ・ヒル」。
奥武山公園駅からふたたびゆいレールに乗り、おもろまち駅で下車。首里の方に向かって左後ろの小高い丘がシュガーローフ・ヒルだ。
棒状の砂糖菓子に形が似ているところから米軍がシュガーローフ・ヒルと名づけ、高さが約52mあるので日本軍が「安里五二高地」と呼んでいたこの小さな丘は、首里の西側に位置する。ここが占領されれば、司令部のある首里が直接攻撃されることになり、また、東側にも米軍が迫っていたので、首里は包囲されてしまう。
5月12日に始まったシュガーローフ・ヒルの戦いはまさに首里をめぐる攻防戦であり、沖縄戦最大の激戦となった。
戦いは1週間続いた。
連日の突撃で戦力を消耗した米第6海兵師団は定数の1/6に相当する約4,000人が死傷し、一方の日本軍は米軍の火力の前に独立混成第44旅団がほぼ壊滅状態になり、5月18日、シュガーローフ・ヒルは陥落した。
今は那覇市上下水道局の安里配水池になっているこの丘には壮絶な戦いの跡を示す案内板がある。


現在のシュガーローフ・ヒル。


丘の上には展望台があり、シュガーローフ・ヒル周辺を見渡すことができる。
展望台に上ると、高校生のカップルが地べたに座り、仲睦まじく話をしていたので気が引けたが、
「ちょっとお邪魔します」と一言断って周囲の写真を何枚か撮った。

 
おもろまち駅の西側は返還された米軍施設の跡地で、DFSギャラリアをはじめショッピングモールやシネマコンプレックスの大きな建物がずらりと並んでいる。
かつての激戦地も今は平和そのもの。
きっと若いカップルもここで日米両軍が激突したことは知らないんだろうな、などと考えながらこの場を去ることにした。帰り際に二人の方をちらりと見たが、私のことなどまるで存在しないかのように楽しそうに話をしていたので、今度は声をかけずにその場を離れた。
 
 

階段を降りようとしたとき、ここでもやはりキャタピラの音が聞こえた。振り返ると隣の敷地で大規模な建設工事が行われていた。
沖縄では暑い夏を避けて、秋になると工事を始めるのだろうか。
あとでこの周辺の案内地図を見たら、「市行政施設予定地」とあった。



シュガーローフ・ヒルにはお寺と教会が隣り合わせで並んでいる。
これも激戦地であったことと無関係ではないであろう。
こちらは琉球山法華経寺。



お寺の案内板を見ると、戦後、沖縄に寺院を建立するにあたりこの地を選んだ、とある。
鐘楼の前の卒塔婆には「沖縄戦敵味方一切の殉難者及び戦没者の霊之追善」と書かれている。
私はさらに階段を上り、本堂の前まで進んだ。そこで今回の沖縄戦跡紀行の最後に、手を合わせ、沖縄戦の多くの犠牲者たちの冥福を祈った。
帰り際、住職さんとおぼしき男性とすれ違った。
お互いに「こんにちわ」と気持ちよく挨拶。


こちらはカトリック安里教会の大きな建物。




夕方の6時近くになると日も暮れて、あたりも暗くなり始めてきた。
帰りの飛行機の時間も迫ってきたので、おもろまち駅まで戻り、那覇空港駅に向かうことにした。
乗る飛行機は那覇発19時35分のスカイマークSKY520便。
羽田に着くのが22時ちょうどなので、あまり時間はなかったが空港内の食堂で夕食。
入ったお店は「どんぶりの店 志貴」。店の前に「パパイヤ丼」の表示があったので、迷わずこれを注文した。パパイヤ丼は熟していないパパイヤとコンビーフの炒め物をご飯の上にのせたもの。
それに沖縄そば。あまりおなかはすいていなかったが、今回は沖縄そばを食べていないことに気がついたので、迷った挙句、注文した。でもこの店ではそばは小盛もできるので助かる。
時間がないと言いつつ、オリオンビールの生はいつの間にか2杯も飲んでいた。


 
食べ終えた後に気がついたが、沖縄そばにコーレーグース(島とうがらしの泡盛漬け)を入れるのをすっかり忘れていた。
次に来るときは絶対に忘れないようにしよう、そう心に決めて沖縄の海をあとにした。
 
1泊2日のあわただしい旅であったが、旅を終えてみると、長年心の中に引っかかっていた宿題にようやくとりかかることができて、少しは肩の荷が軽くなったよう気がした。
もちろん沖縄戦の跡をすべてを見ることができたわけではないし、本文中にも書いたが、沖縄に大きな影を落としている米軍基地をめぐる旅もまだ残っている。
今回の旅行のあと、おととしと去年の12月にふたたび沖縄を訪れているが、こちらはどちらかというと「ゆるむ」旅。このときはそれぞれ別の定期観光バスやツアーに参加したので、行く場所が重複して2回とも琉球村に行ったが、飽きることなどなく、獅子舞や踊りのショーを見ないと年が越せないと感じるほど沖縄が自分の体に馴染んできているのを感じた。
やはり沖縄行きはやめることができない。
 
下の写真はおととしの12月のときの芸能ショーの様子。
 
 
こちらはおととしの12月に食べた沖縄そば。
コーレーグースは忘れないようにしっかり沖縄そばの横に置いた。

 
 (あとがき)
連載を始めたのが旅行から帰ってきて9か月後。それから半年かかってようやく終わりまでもってくることができました。読者のみなさまには、気長におつきあいいただき心より感謝しております。
これからは少なくとも月に1回は更新しようと強く心に決めていますので、今後ともよろしくお願いいたします。
<Y>
(「沖縄戦跡紀行」終わり)