前日は遅くまで飲んでしまった。
宿は国際通りの近くにとっていたので、帰りの電車の時間を気にする必要はないという気軽さもあって、サバヒ君との話は遅くまではずんだ。
それに、さすが沖縄は夜型社会。夜遅くなってもどこも人が多く、夜中の1時を過ぎても深夜という感じがしないので、こちらもついつい気が緩んでしまう。
「飲み過ぎ」だけでなく、沖縄の人は飲んだ後の締めにステーキを食べるというのを聞いて、私もためしに挑戦したので「食べ過ぎ」も重なり、この日の朝はまったく胃が働かなかった。
それでもこの日も行きたいところがたくさんあるので、朝7時に起きてシャワーを浴び、ホテルをチェックアウトして国際通りのバス停「松尾」から那覇バス25番普天間空港線に乗り、サバヒ君に教えてもらったとおり「広栄」というバス停で降り、西の方に向かって歩いた。
バス停から12~3分ほど歩くと嘉数高地の展望台が見えてきた。
階段を上ろうとしたところ、沖縄戦当時の弾痕後が保存されているかつての民家の塀に気がつき、
少し下がってカメラを構えた。
すると、後ろから「もしもし」と声をかけられたので、振り返ってみると、白髪のご老人たちが3人こちらを向いて笑っていた。このおじいさんたちはゲートボールをやっていて、私が立っているところがちょうどボールを打ち込むコースになっていたのだ。
そこで、私は「すみません」と言ってコースを避けて、3人がボールを打つのを待った。
かつての激しい戦場は、今ではご老人たちの憩いの場になっている。
嘉数の展望台から見る嘉手納海岸。
昭和20年4月1日、米軍は猛烈な艦砲射撃のあと、左上の海岸から上陸し、こちらの方に向かって侵攻してきたが、この嘉数高地と東の和宇慶との間を結ぶ日本軍陣地で守備隊の抵抗にあい、前進を阻まれていた。
そして4月19日、こう着状態を打破するため米軍は総攻撃を開始した。
砲兵部隊による猛烈な砲撃に始まり、米軍は延べ650機の航空機と戦艦6隻を含む艦艇による激しい砲爆撃を行った。しかし、洞窟陣地に潜んでいた日本軍守備隊はこれだけの激しい攻撃に耐え抜き、進撃してきた米戦車隊30両のうち22両を撃破した。これによって米軍は一時的に撤退することを余儀なくされた。
米戦車隊が進撃してきたのは嘉数高地の右下あたり。
やはりここでもキャタピラの音がしたので、よく見てみると新しい道路を建設しているところであった。
海岸に面した側にあるトーチカ。猛烈な砲爆撃にも耐え抜いた跡だ。
嘉数高地展望台の目の前は普天間飛行場。
沖縄の基地問題にも関心はあるが、1泊2日ではさすがに戦跡めぐりと基地めぐりの両方はできない。基地をめぐる旅もいつかは企画したいと考えている。
嘉数の次は第32軍司令部のあった首里城へ。
嘉数高地から「広栄」のバス停に戻ったが、今度は国道330号を下るバスに乗り、ゆいレールと交差する古島駅前まで行くことにした。
バスに乗ったあたりでようやく胃が動いてきたので、家からもってきたクッキーとミネラルウォーターの軽い朝食をバスの中でとった。
古島駅からゆいレールに乗り首里駅で下車。
おなじみの守礼の門。
首里城では、ちょうどこの日、冊封儀式が行われるところで、首里城正殿前に向かう冊封使の行列に偶然出くわした。いつになく華やいだ雰囲気で、なんとなく得した気分。
シュガーローフ・ヒル陥落後の5月27日、第32軍司令部は南部に撤退し、そのあと米軍の徹底的な
攻撃により首里城は全焼してしまった。
私が司令部壕跡の写真を撮っていると、若いカップルが「ここに(司令部が)あったから攻撃されたんだよね」と話しながら通り過ぎて行った。華やかな琉球王国の栄華の歴史も、悲惨な戦禍の跡も、この首里城には刻まれている。
昼食は首里城向かいの「あかばなー」で味噌汁定食。
具だくさんの味噌汁とランチョンミートのフライ、刺身で500円。
二日酔いの胃袋に味噌の味がしみわたる。
デザートは、前の日にサバヒ君が伊良部島で買ってきてくれたうずまきサンド。これはゆいレールの中で食べた。
食べていると生クリームの中のグラニュ糖が口の中でじゃりじゃりする。これがこのパンの特徴だ。
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(次回に続く)